次から次と強敵を撃破し、7月25日、うちのガッコーは県大会で優勝しました。その晩から、わざわざ東京から取材の人たちがやってきたものでした。
話題性があったようです。ずっと負け続けていたポンコツ高校、県内で偏差値も最低のガッコー、そうした逆境を乗り越えて、とうとう甲子園までたどり着いた。
すぐに試合をして欲しかったのに、初めて甲子園で試合ができたのは、8月11日の夕方でした。もうクタクタになって甲子園までたどり着き、球場に着いたら、やっと試合が始まるのかという感じでした。
この2週間、ものすごい地元の熱狂と、教職員のお金集め・寄付のお願い、グッズ販売、バスの申し込み、小さな学校なのに、気持ちだけが焦り、仕事はなかなか進まなかったけれど、とにかく準備したものでした。
世の中には、変な人(?)がいっぱいいて、「校歌のCDを集めているから、送ってくれ」とか、「グッズを集めているから、入手方法はないのか」など、不思議なお問い合わせがいっぱい来たものでした。
私は、ちゃんとCDをコピーしてあげて、「応援よろしくお願いします」と一言書いて郵送しました(面倒だから自腹で!)。グッズは、「地元でも手に入らないということで、申し訳ありません」とハガキを書き、雑務担当でがんばりました。バス観戦申し込みの人員整理、グッズ販売の担当補助など、地道なお仕事もしました。ものすごい準備の夏でした。
そして、当日は、応援団代表として朝日放送のお姉ちゃんたちにインタビユーをされました。もう涙目で恥ずかしかったし、まともに答えられなかった。どうして私みたいなのがテレビに出なきゃいけないんだよ! もう悲しかった。感極まってる自分が、ホントに小物で、情けないやら、悲しいやら。
試合途中では、「次のバッターは誰?」というお客さんのために、名前ボード持ってきたはずなのに、見つからなくて、海岸沿いの駐車場のバスのところまで探しに行ったり、それでも見つからなくて、もうヤケクソで、ハンドマイク片手に、「次はショーゴでお願いしまーす」とか、「次はキョータローでお願いしまーす」と大観衆に声掛けしてました。
あれは、何だったんだろう。役に立ったのかなあ。たぶん、みんなに声は届かなかったと思うけど、みんな何となく応援していたようです。もうなんでもよかったんでしょう。とにかく、みんなで声を出したかったんだ。
ほんとにイノセントな瞬間でした。訳が分からなかった。
そんなに息子がつまらない奮闘をしていたら、うちのオカンときたら、ダフ屋さんで少し高いお金でキップ買って、やってきたということでした。
「オカンはけーへんって、言うとったのに、やっぱり来たんかよ!」
素直でないオカンでした。
弟たちには入場券は渡してたんだけど、オカンが来るとは! 行きたいなら、行きたいと言えばいいのに、言わないオカン。それを見越してオカンの分も用意しておけばよかったんですね。
「そんなの知るかよ! このひねくれ者! それに気づかないボンクラ息子!」